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コラム
永い言い訳

映画コラム「永い言い訳」

コラム

 

「大好きな映画」とは別のベクトルで語りたい「完璧な映画」というものがある。

タイトルが完璧。
物語が完璧。
演者が完璧。
BGMが完璧。
衣装美術が完璧。
台詞が完璧。
流れが完璧。
間が完璧。
起伏が完璧。
伏線の回収が完璧。

つまり完璧。

あらゆるシーンが綿密に練りこまれており、重箱の隅まで計算されていて、歪さがなく、いやちょっとうますぎるでしょと唸ってしまう。

「永い言い訳」はそんな映画だ。

映画の中には、めちゃくちゃダサく見せて逆にセンスがないと作れない、ふざけることで真摯なメッセージを伝えている、荒唐無稽に見えて普遍的な人生賛歌を表現している、などなど、映画慣れしていないと、核心を掴みづらく面白さがいまいちわからないカルト性の高い作品がたしかにある。
分かる人には分かる、というやつだ。

その点、「永い言い訳」はとてもとてもとても深い映画であると同時に、とてもとてもとても観やすい。

おそらく多くの人にとって、心の琴線に触れるテーマであり、観終わる時には、登場人物の弱さや愚かさに対し、人生に再生に対し、慈愛を持って心地良く考えさせられる作品である。

主人公の幸夫(もっくん)はテレビタレントでもある作家で、美容室を経営している夏子(ふかっちゃん)と夫婦である。
幸夫は、ナルシストで自分に甘く、一番近い存在の夏子には冷たく接し何かと意味不明な難癖をつけて、遠い人にはいい顔を見せる。いわゆるモラ男というやつに十分に当てはまる要素をもっている。
幸夫には夏子と対等の会話をする気がまるでない。
夏子に髪を切ってもらいながら、あらゆる角度から嫌味を吐き出し、冒頭から圧巻の「こんな男絶対嫌だ像」を見せつけてくる。
おまけに浮気をしていて、夏子が親友とスキー旅行に行く隙に、罪悪感のかけらもなく浮気相手を自宅に連れ込むのだ。
出て行けー!今すぐスクリーンから出ていけー!と拳を振り回したくなること請け合いのクズっぷりだ。

夏子と夏子の親友が、スキー旅行に向かうバスの事故で亡くなることから幸夫の人生は一変する。
浮気相手とまったりしている最中に、夏子が亡くなった報告を留守番電話で聞き、固まる幸夫。
しかし、人生は一変するものの、幸夫のもともとの性分と夏子への想いが一変するわけではない。
今まで夏子と向き合ってこなかった幸夫が、亡くなったからといって、急に向き合えるわけはなく、涙も出てこないのだ。どこか他人事のように、状況に応じた「妻を亡くした不憫な作家の夫」っぽいものを演じる。

そんな中、夏子の親友ゆきの遺族である陽一(竹原ピストル)と出会う。

陽一は、妻を真っ直ぐ愛し、感情も言葉も一直線で、幸夫と真反対の人間だ。すぐ泣く。
残された遺族は陽一だけではなく、しんぺいことしんちゃんと、灯ことあーちゃんがいる。しんちゃんは中学受験を控えている真っ只中。
陽一は、トラックの運転手のため夜勤で家をあけることが多いので、お母さんが亡くなった今、しんちゃんは塾を辞めて中学受験を諦めようとしていることを幸夫は知る。
そこで、幸夫は、夜勤の時だけ、自分が子供の面倒を見ることを提案し、交流が生まれていく。
さすがの幸夫も子供には優しく辛抱強く、幸夫もやっとマトモになるのか…と思いきやのところで、夏子の遺品である携帯電話の中で一通の下書きメールを目にする。

そこにはこんな文章が打たれていた。
「もう愛してない。ひとかけらも」

と、粗筋はこんな感じだ。

観ていない人はまずは深読みせずに観て欲しいと思う。

さて、ここからは複数回観ている人間の感想である。※ネタバレ多少あり

この映画は、完璧なバランス感覚で巧妙に娯楽作品に昇華させているが、一方で、一筋縄でいかないアイロニカルさを孕んだ作品でもある。

クズな人物が改心したように見えたところで、手痛い罸があたるし、きっちり見透かしている人間が周りにいるし、やっぱり自己愛が異常に強いクズなので、無闇に人を傷つけ、傷つけた分恥をかき孤独を味わう。

観るたびに、心にこびりつく部分が季節の移り変わりのように変わる作品だ(よくできた映画というものはそういうものだと思うが)

10億個ぐらい完璧なシーンがあるので、とても全て書き出せないのだが、「妻を亡くした不憫な作家の夫を演じる幸夫」を演じるもっくんが本当に素晴らしい。

夏子を亡くしたばかりで不倫相手に変わらず身体の関係を迫りゴミを見る目で見られた時。夏子の葬儀を事故が起きた現地で済ませてしまって、参列できなかった夏子の美容室のスタッフの人たちが怒りをあらわに詰めてきた時。遺族説明会で「そんな話はいいからあいつを返してくれ」と遺族が怒号をあげた時。

なんでこの人たちこんなに泣いたり怒ったりしているの?という感じの、ちょっと吹き出してしまいそうなほどに、「軽薄で素っ頓狂」な表情をするのだ。

幸夫がどれだけ自己愛が強く、他者が幸夫の人生という主語とどれだけ乖離しているかをよく表している名演出であり名演技が続く。

まぁ煮ても焼いても幸夫はそんな人間なのだ。子供と一緒にお米を研いだぐらいで「じゃあこれまでのあなたを水に流しましょう〜。これから頑張って生きていくのだよ〜」と物語の神がなるわけがないのである。

そのことを、ズバッと突きつける人物がいる。
幸夫の編集者である池松壮亮君だ(急に俳優名ですまん)。
初見でも、池松くんの役の言動が印象に残った人は多いと思う。

家族を亡くした人間には、優しい言葉をかけるのがセオリーの中、辛辣な言葉を発するのが池松くんの役だ。

牛乳を買っていかなきゃとウッキウキで話したり、しんちゃんからもらったキーホルダーをニッコニコで見せる幸夫に、池松くんが若干の軽蔑さえ感じさせる表情と物言いをするのだ。
幸夫はとても心外だという面持ちで「彼らは困ってるんだよ」と噛み付く。
「僕らしくないですか?子供の面倒なんか見て」の問いに、池松くんは「全然おかしくないですよ。だって先生それは逃避でしょ?」と言う。

池松くんは、もともと投げやりな演技がうまい俳優であると思うのだが、この「全然おかしくないですよ」の言い回しは、アカデミー投げやり賞ものなので注目していただきたい。
この人今から知りたくない真実を告げてくるだろうな、という不穏さがみなぎっており、思わず幸夫と一緒に身構えてしまう。

その後に、池松くんは自分の子供の写真を見せつつこう続ける。

「子育てって男にとって免罪符じゃないですか。全部帳消しにされていくような気がしますもん。自分が最低で馬鹿でクズな人間だってこと」

クズの幸夫もびっくりのアカデミー言い過ぎで賞ものである。
幸夫に対しても、観客に対しても揺さぶりをかけてくる名シーンだ。

言い過ぎなのだが、その通りなのだ。
幸夫は実際、夏子の死を真っ直ぐに悲しめなかったこと、生きていた寸前まで敬愛の気持ちなど全くなく裏切っていた贖罪として、陽一の子供達に尽くしているのだ。※本当にしんちゃんとあーちゃんを心から可愛いと思っているところも多分にある

それが悪いことではない。行動原理がなんであれ、陽一家族にとって幸夫の行動が助けとなっているのは間違いないし「人は自分が可愛い生き物」だからである。

池松くんが無視できなかったのは、そのことを自覚している人間と、自覚していない人間がいるということだろう。
人一倍自覚している人間として、少しも自覚しようとしない、無邪気を装う幸夫の様が、いまいましく痛々しく少しだけ羨ましかったのだと思う。

このシーンは、観るたびに、私は池松派の人間だということをあぶり出されているような気になる。
子供を育てたことはないが、ろくでもない人間なのに自分を見捨てることはできず、免罪符となるものを見つけて辻褄を合わせることで、普通のことで喜び普通のことで悲しむ人の顔をして社会で暮らしている。
そしてそこに絶対に無自覚にはなれない。これも幸夫と違う種類の自己愛なのだろうと思うけど。

月日は少しだけ流れ、陽一に良き理解者になりそうな女性の知人ができる。
幸夫は自分がお役御免になることを、また、あんなにメソメソ泣いていた陽一が新しいステップに進もうとしていることを察し、小姑のような嫌味を繰り広げる。モラ幸夫リターンズである。
よりによってあーちゃんの誕生日会で、陽一やしんちゃんに対し、トラウマレベルの暴言を吐きまくって、家を飛び出す。
追いかけてきた陽一に自暴自棄になった幸夫は「僕は夏子が死んだ時、他の女と寝てたんだよ。夏子のベッドでセックスしてたの。やりまくってたの。君とは全然違うんだ」と独白して立ち去る。
そこで陽一家族と幸夫の交流は途絶えるのだった。
幸夫は呆然とする日々が続き、しんちゃんはしんちゃんで、あーちゃんの面倒の大変さや受験にそこまで理解がない陽一と喧嘩をしてしまう。
そんな時、幸夫のもとへ電話が鳴る。病院からで、陽一が仕事中に事故ったというのだ。慌てて洋服を着替える幸夫。ここを引きでマンションの外から撮るセンスが完璧でおそろしい。
幸夫はしんちゃんに電話をして、一緒に病院に行き、陽一としんちゃんを無事に引き合わせる。
2人が乗ったトラックを見送る幸夫は、ものすごく寂しそうだが、どこか憑き物がとれたような穏やかな表情だ。

幸夫は夏子の美容室に向かい、夏子が死んで以来切っていなかったボサボサの髪を、葬儀のことで言い合いをしたスタッフに切ってもらう。
つまり、冒頭と終盤で髪を切るシーンがあるのだが、対比の演出が完璧でおそろしい。
夏子に髪を切ってもらう時は、鏡があって幸夫と夏子が写っている。しかし幸夫には何も見えちゃいない。夏子の気持ちも自分の醜悪さも。
ところが、終盤のシーンでは、鏡自体は映らない。髪を切られながら鏡をじっと見つめる幸夫の顔だけが観客側に映し出されるのだ。
冒頭シーンとはまるで違う表情で、幸夫はやっと、二度と取り戻せないものの大事さを知り、受け入れることにしたのだと観客は察することができる。

あちこちに完璧さが潜んでいて、本当におそろしい映画なのだが、最近の鑑賞で、また新しい完璧さに気付いた。
「かける言葉もない人達とそれでも言葉を発する人達」の連なりのうまさが完璧なのだ。

とりわけ印象に残ったシーンは3つある。

1つめは、しんちゃんがバスを乗り過ごし追いかけてきた幸夫に弱音を吐くシーン。
「なんか疲れちゃって」と、初めて涙を見せ、ゆきおは言う。
「大丈夫だよ」

全然大丈夫じゃない。大丈夫なわけがない。母親を亡くしたのだ。
でも、幸夫は、そう言うことしかできない。

2つめは、夏子が残した愛していないというメッセージを見てから、ますます折り合いをつけられない幸夫が気持ちを爆発させ暴れ狂う場面だ。.
どうしたらいい?と誰にでもなくすがるように吐露する幸夫を、池松くんが押さえつけて言う。
「考えましょう」

考えましょうって何を?どうやって?
分からない。分からないけれど。
きっと私もそう言うしかない。

これが言葉なのかも分からない。
物を落としたら拾う、水をこぼしたら拭く、といったように、もはや反応に近いのかもしれない。と思う。

同様に、1のしんちゃんの言葉も、2の幸男の言葉も、そういうものだろうと思う。
「その人」に言いたくて言っているわけではなく、目の前にいた人に対し、身体の反応としてこぼれたのだと思う。

私たちの世界は、小石を川に投げた時の波紋に綿毛が生えたような、言葉だけど言葉に満たないもので溢れている。

だが、この反応の呼音が、「毎日という運動」をかろうじて止まらせず、延長させることができるものなのではないか。

その人に起きたことは分かっても、その人の心の内は分からない。

大丈夫だよと言われたら言われたで、私のことなんて分からないくせに、と思ったことも、思われたこともきっとある。

「永い言い訳」の中の、かける言葉もない人達だってそれぞれがそれぞれに対しそう思っているかもしれない。

それでも、私たちは生きようとする限り、反応を求め反応し運動を続ける。
疲れちゃってと言われたら「大丈夫だよ」と言い、どうしたらいい?と言われたら「考えましょう」と言う。

3つめのシーンは、陽一が事故ってしんちゃんと電話で話す時だ。
「僕お父さんに酷いこと言っちゃって」と言うしんちゃんに、幸夫は走りながら「大丈夫。これからそっちに聞きに行く。待っててね」と返す。

1つめの大丈夫と3つめの大丈夫は同じ種類のものだろうか。
私には、違うものに聞こえた。

病院に向かう電車の中で「僕はなんでお母さんなんだろうって思ってた。死んだのがお父さんじゃないんだろうって思ってたんだ」としんちゃんが言う。
幸夫は「自分を大事に思ってくれる人を見くびったり貶めたりしちゃいけない。そうじゃないと僕みたいになる。僕みたいに愛していいはずの人間が誰もいなくなる。君たちはそうならないで」と静かに伝える。

病院から自宅に戻る陽一としんちゃんを見送り、帰りの電車の中で幸夫は、手にペンを取り手帳にこう書き込む。
〝人生は他者だ〟

人生が他者という主語になり得る時、人は反応以上の言葉を紡ぐことができるのかもしれない、と思った。

完璧だ。

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